心を通わすことができない、心を通わせる方法が分からない。

こ、こんにちは。コミュ障やっていますか? さてこのブログもいよいよ300記事を超えて大台に乗ってきました。 実に毎回原稿用紙2枚半くらい書いて来ましたから、

1000文字×300回=30万文字、文庫本ができあがるくらいの情報量にはなってきたという計算であります。

実に、自分の気持ちに正直に飾りなく書いたオリジナル記事ばかり、だからこそどんよりと曇った暗澹(あんたん)たるコミュ障の実録がここにあるというわけです。

とくに、このブログは読者の対象を、

「喋ることができる、でも人見知りで、打ち解けることができにくい、またはずっと演じ続けている」

という方にフォーカスしてきました。つまりは根暗です。

決して周囲から嫌われて浮いてしまっているわけではない、でも、どこにいても疎外感を感じ、どこにも自分の居場所がなくて、人と喋っていても退屈させてはいけないと焦ってしまうような、か細い魂、そういう繊細な方を見つめながら書いて来ました。

人間というものに、遠慮して近寄れない、また、近寄られることも苦手で、その姿は太陽の周りを一定の距離感で回る惑星そのものです。 普通は最初ぎこちなくてもだんだんとその距離を縮めていい関係になれるものなのでしょうけども、コミュ障には眩しくてそれができないのです。

そして、自らその距離を保っているのにも関わらず寂しさを感じるわがままな性質も合わせて持っているというこの矛盾、なのであります。

まあいろいろとコミュ障にも事情はあります。

ただ、一つ、ここまで色々とコミュ障について書いてきて思ったこと、それは、

人と心を通わせることができない

ということです。

表面上はやれる、社会生活を送る上での必要最低限なことも言える、でも戯れるというか仲良くなるための会話ができないのです。


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つまり、いくら相手と喋れども、心が通わない感じがするということです。

これは致命的です。

例えば、無口な父、というような表現がありますが、これはつまり、その父親とは話をあまりしなかった子ども、特に思春期を迎え大人になるにつれてだんだんと照れくさくて喋りにくくなってきた親と子の関係を指すわけですが、これはつまり、コミュ障な親、ということですが、この場合は、対人関係・愛情関係の歪みがある、とは言わないでしょう。

コミュ障が周囲の人と話をしない、というのとはわけが違います。

その差は何か。 無口な父親という表現には「大好きなお父さんと話をしたいけどちょっぴり恥ずかしいから、喋らない、でも大切に思っている」という、

心の通った状態が前提としてあるのです。

こういう心の状態というのは、気まずいとか退屈とかそういう概念を超えて、一体感を生み、居場所としての認識がなされるものなのです。結果、孤独感やそれに付随する疎外感などを感じることがないのです。

だから、いかに相手と心を通わせることができるか、ムリに喋らなくても自然体に自分がリラックスした状態で思ったときに思ったように話したり、何かしたりする、こういう関係ことがコミュ障なのか、そうでないのかを分けるのだと思います。

では、その心を通わせる方法とはどうやればいいのか。多分ですが、まず相手を信じることなのです。

・・・というのは表向き、

「嫌われてもいいぜー、ガシガシ行くぜー」という相手への踏み込みこそが大事だと思います。ウザいまでに踏み込まれた相手は仕返しに、アナタに対して踏み込んできます。だから時として衝突もします。

でも、それが仲良くなるということ、心を通わせることだと思うのです。 いつしか子どもは大人になり、やがてどうやって友達を作っていたのか忘れてしまう、そんな生き物なのであります。



アナタは私と似てる?>>管理人はこんな人






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