太宰治「人間失格」が〝コミュ障あるある”すぎ。演じれる人見知り系コミュ障必見!

人間失格

こここんにちは。 コミュ障の安倍でございます。 もう人生詰んだ感がハンパなく日々いや〜な汗に悩まされていますが地道にがんばって生きていたいと思います。 というのはコミュ障ならコミュ障でどこまでやれるのか?というのもワタシの一つの人生のテーマだからと思うからです。 まあこんなブログを書き連ねたところでほとんどファンもできないところが、いかにワタシがコミュ障か物語っております。

いくらネットで長文を綴っても響かないんでしょうね(苦笑

でもやるど!他に興味のあることもないし。。

さて、今日はコミュ障におすすめの本の紹介です。

ああ、本なんて読むのダルイぜー、と思わないでぜひ読んでください。 どうせコミュ障は人と話して時間を潰すこともできないのでせめて博学でいるとか独特な感性を持って生きようという点で読書は欠かせないと思うからです。 読書もしないコミュ障はもうホント、、死にたくなると思います。 何の取柄もなくただこの世に生まれ落ちただけの自分に意味などないと考えてしまうからですね。

でも読書することでなんか自分が賢くなったような気がして、なんか自分にも人よりデキることがあるんじゃないかという漠然とした自信みたいなものがほんのりと宿る感じがするからです。

自分は確かにコミュ障だけど、こんなに本を読んでいろいろと知ってるんだぜ、という自信は少し曲がった根性かもしれないけれどそれでも生きる勇気を与えてくれることには違いないでしょう。 小説家の北方謙三さんも「死にたい」という相談を受けてそれに対し「本を50冊くらい読みなさい、すると考え方が変わる」みたいかことを言っていた記憶があります。やっぱり読書は有用な効果があるのでしょう。

そんなわけで前置きが長くなってしまいました。

表題の通り、本日は、かの著名文学、太宰治「人間失格」についてのお話です。

人間失格との出会い

ワタシ実はこの本って、過去には一度開いたことがあるのですが、 確か18歳くらいの時だったと思いますが、その頃はもうなんか退屈で最初の数ページですぐに読むのをやめてしまったんですね。

でも、ついこの間、百均ショップのダイソーで当該本が並んでいたので手に取って買ってしまったんですよね。

「ああ、これ、15年以上も前に読むの挫折したやつだな。。」とか思いながらも何か惹かれるものがあって、今思えばこういうコミュ障系の暗いブログをここ一年やっているものですから、なんとなくこういう「人間失格」というような暗い語感をキャッチしてしまうアンテナがついていたんでしょうね。 悲しや。

人間失格を読んだ感想

はい、ということで気が重い中で開いた太宰治『人間失格』ですが、

・・・いやいや、ドップリとその世界観にハマってしまいました。 夜更かししてズッポリとそのコミュ障ワールドを醸しまくる世界にうなずきながら、いや、ややもすると自分の前世は太宰治だったんだじゃね?というくらいに共感しまくりなのでした。

この付箋の数を見てください。

どんだけ共感してしまったのか俺はと。フライドポテトみたいにわさわさと付箋が生えております。

※この本、ダイソーで100円で買いました。

人間失格

ちなみにこの人間失格はフィクション文学ではありますが、太宰治の遺書であるとも言われるくらいの実録的なものだそうです。

なるほど読んでいて、一人一人に対峙する主人公のコミュ障的な心理描写が生々しいんですよね。 ああぁ、あるある、とコミュ障ならもう吐きそうになるほど理解できるような描写が脳細胞の一つ一つの動きをモニタリングしているかのごとく的確な表現で捉えらえているのです。

しかもそれでいて端々に矛盾がないのです。

コミュ障だったらこの考え方はないだろ、、というシーンがないのです。 一貫してコミュ障ならではの感受性や性格を捉えて外れていない、いやこれはもうコミュ障のエッセイだろという感じなんですね。

唯一、合点がいかないところは、女にモテル、というところだけなのですが、これはまぁ小説の世界ということで脚色の範囲内で許容できると思います。 もっとも、その仲良くなった女にもビミョーに関係を保つことができず離れる、あのコミュ障独特の初対面はなんとかなるけどつきあっていくごとにだんだん疎遠になるというようなところは一貫しておりやはりコミュ障感に狂いはないのです。

人間失格のあらすじ、引用と説明

あらすじとしては、ざっくりいうと、

恵まれた家系に生まれた主人公でありながら、コミュ障な性格であるがゆえに真人間として平凡に生活することができず、いつの間にか悪い友人に染まりアルコールに溺れ、そこから転がり落ちるように堕落していき、女にうつつをぬかし、最後は薬物で社会生活が送れなくなってしまうというような話なのです。

そして肝なのが「気弱で人見知りな内気コミュ障」のくせに、それを隠すように「道化師(わざとおどけたりふざけたりしてリア充を気取る)」として生きるという、暗い暗い性格の持ち主であるということなのですね。

ただ引きこもりニートなコミュ障、みたいなものではないのです。

表向きはコミュ障を隠してリア充を演じ、でもそれに疲れ厭世観を抱きながらも、やることはやる(とっかえひっかえ女子と付き合います)という、ハチャメチャ、でもコミュ障なら同情してしまうような人生なのです。

もうガチで病んだ暗さを感じる、それもコミュ障だからこそ分かるような毒が盛られている本なのです。

以下、本文の中からこれはコミュ障だぜとうなるような文章の引用集です。

●人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分ひとりの懊悩は胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はおどけたお変人として、次第に完成されて行きました。

⇒この根暗ぐあい、分かりますよね? 人が怖くて本来なら引きこもりたいのに、ホントの自分を貫いて嫌われる勇気(暗い自分をありのまま見せることによる敬遠の恐怖)がなく、周囲に迎合すべく自分をおチャラけたキャラに見せ、演じるという。 ああ、泣きたくなるほど共感します。

なんか人から「なんか面白いことしてよ」みたいなことを無言の空気感で求められているような感触に耐えられず、その強迫観念からおどけるという。。 当ブログの過去記事でも触れています。⇒何か面白いこと言って楽しませてくれよオーラのプレッシャーで会話に疲れる

●「葉蔵は?」と聞かれて、自分は、口ごもってしまいました。

何が欲しいと聞かれると、とたんに、何も欲しくなくなるのでした。

⇒このシーンは、主人公である葉蔵の父親が、出張土産に何か買ってきてあげようと子ども達(葉蔵とその兄弟)に欲しいものを聞いているシーンです。

これ、ワタシの幼少期もそうでした。 クリスマスとか誕生日が近くなるとこういうことを聞かれることが多かったのですが、何か自分のために手間をとらせるというような、迷惑をかける気がして、気後れしていました。 親がサプライズしてオモチャとか買ってきたときには、ああ負担をかけさせてしまった。。と悔やむ自分がいたのを覚えています。 コミュ障とは関係ないようでいて、 この気弱で甘え知らずなところがコミュ障を構成する気質のひとつであるともいえるでしょう。

●イヤな事を、イヤと言えず、また好きな事も、おずおずと盗むように、極めてにがく味わい、・・・

そう、断れないのです。 相手に迷惑をかけたくない、 いや本質はそんな気高いものではなくてイヤということによって相手の期待をポッキリと折ることで悲しませることがまず負担に感じてしまうこと、そして断ってしまうことによって相手から嫌われてしまうのではないかと感じてしまうんですよね。

つまり、自己中でないように見えて、割と自分ありきな考えなのです。

●あるいは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです。

そう、リア充についてのことですね。いつも元気で明るく社交家なあの人のこと、どうしてあんな振る舞いができるのか理解に苦しむ、そう、コミュ障からすればとても眩しい、めまいがしそうなのです。

●俳優にとって、最も演じにくい場所は、故郷の劇場であって、しかも六親眷属全部そろって座っている一部屋の中にあっては、いかな名優も演技どころでは無くなる・・・

これ。 これ暗いですよね。 つまり、外に出れば仮面をかぶった面白い明るいヤツを演じることができても、親や親族の前では素の自分から逸脱できない、やろうとしても強力な心理的なストッパーがおりてまるで鎖で体をがんじがらめにされているがごとく反応できないあのモードです。 コミュ障で演じれるタイプの人なら共感できると思います。

こどものころ、参観日が恥ずかしかったタイプはこれに当てはまるでしょう。

●自分の人間恐怖は、それは以前にもまさるとも劣らぬくらい烈しく胸の底で蠕動していましたが、しかし、演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、・・・

そう、これは希望めいていますが、コミュ障でも演じているうちにだんだんスキルが身についてくるのです。 やはり心でどう思っていても口と体を動かしていればおのずとリア充的なスキルが身についてくる、ということでしょう。 イヤイヤでもやればできるものなのです。

ちなみに、この成れの果てが「芸人」というのような気もします。 芸人には根暗でプライベートは人見知りなのに、という方が結構いますが、まさにこれです。

●女は、男よりも更に、道化には、くつろぐようでした。 (…中略…)

男はさすがにいつまでもゲラゲラ笑ってもいませんし、それに自分も男のひとに対し、調子に乗ってあまりお道化を演じすぎると失敗するということを知っていましたので (…中略…)

女は適度という事を知らず、いつまでもいつまでも、自分にお道化を要求し、自分はその限りないアンコールに応じて、へとへとになるのでした。

分かる。 そう、女子、この生き物たちの「なんか面白いことして退屈紛らわせてよ」オーラはすごいですよね。 なんかもうマジメなトークは一切しちゃいけないのではないかというあの緊張感。2・3回の返しでボケなくてはいけないのではないかという焦り。 だからワタシもよく必死でボケようとして、何を言っているかチンプンカンプン、しどろもどろ、なことがよくあります。会話がつながらないんですよね、そして疲れ果てる。

でも実際はそれは自意識過剰だと思います。 いや、多分見栄を張りたい自分もいるのでしょう、心の奥底で。 特に女子に対しては、にぎやかな自分を演じて気を誘いたいという密かな願望もチラホラその本能に準じて発生してしまうのではないでしょうか。

●これこそ胸底にひた隠しにしている自分の正体なのだ、おもては陽気に笑い、また人を笑わせているけれども、実は、こんな陰鬱な心を自分は持っているのだ、仕方が無い、

時折、ふと思うんですよね。 こんなカリソメの自分を演じていて、本当の自分はそうじゃないのに、ああ、疲れる、どうして社会とはこんなに鈍く重い重力が働いているんだと。

そのとき人を笑わせ喜ばせたとしても、次もその期待に応えるべくバイタリティ削られるんだというプレッシャー、となんか自分だけが強力な足かせをハメられているようなハンデ感すらありますよね、コミュ障やっていると。

●四、六時中、くらだらないおしゃべりを続け、あの、二人で歩いて疲れ、気まずい沈黙におちいる危惧が、

ありますよね、やむを得ず複数で歩くシーン。 乾いた会話をしながら、盛り上がらなかったら必死で頭をフル回転させて話題を提供、でもいよいよ話題も尽きて何も出てこない、、歩くしんどさよりもコイツが隣にいるしんどさよ、という。

●世の中の人間の「実生活」というものを恐怖しながら、

結局、コミュ障は思考のくせだとか興味の対象が人とズレているので、人と喋れたとしても「あ、違う」と疎外感を感じます。 それはつまり他人の「実生活」に共感できず、それらに溶け込めないという恐怖を意味するのです。

●どうぜ、ばれるにきまっているのに、そのとおりに言うのが、おそろしくて、必ず何かしら飾りをつけるのが、自分の哀しい性癖の一つで、

これはありますよね。 NOという場面でよくありますが、相手を傷つけたくない、そして嫌われたくないところから虚言癖のような様相を呈するのです。

簡単に言うと、ハッキリとNO!を言えずに、断る文句をウソでもいいから考えるというものです。 いやもちろん、断ることに非が無い場合であっても、なんかそれらしい断り文句、もちろんコミュ障なのでそういうウソもヘタクソなのですが、それでも添えてしまうという悲しさです。


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もちろん、断ったあとも変な後味の悪さが残って数日モヤモヤすること間違いなしです。

●いっさいの付き合いは、ただ苦痛を覚えるばかりで、その苦痛をもみほぐそうとして懸命にお道化を演じて、かえって、へとへとになり、わずかに知合っているひとの顔を、それに似た顔をさえ、往来などで見掛けても、ぎょっとして、一瞬、めまいがするほどの不快な戦慄に襲われる有様で、

友達がいない、できない、じゃなくてそもそも付き合い自体が面倒なので、結果、ボッチになるのがコミュ障です。 でも、演じれるタイプのコミュ障の場合は、見かけ上の友達みたいな知り合いはいるのです。

しかし、当のコミュ障が必死で相手を楽しませるがために面白いヤツを演じているなんて誰も知らない、また知っていたとしてもどれだけしんどい思いをしながらやっているか誰も知らないんですね。 身を削るような思いで人と接ししている、だから、人と会うとなると、それが誰であれ消耗してしまうのです。

結果、外出先で見掛けても向こうが気づいてないと分かればサッと逃げてしまうクセがあるのです。もう視界の片隅に入った瞬間に逃避センサーが働くような過敏さゆえに、似た人にでもあっと、顔を背けてチラっと横目に確認する感じでしょうか。

●人に好かれる事は知っていても、人を愛する能力に於いては欠けているところがあるようでした。

ずるいんです。 人に好かれるというか迎合しているんですよね、自分を折り曲げててでもどうやれば人にへつらえるか体感的にわかっているのです。卑屈な魂がそうやっていつしか自分を操り人形のごとく仕上げてしまうのであります。

そして、コミュ障の原因の大きな要因でもあるのが、この人を愛する能力の欠如、分かりやすくいうと他人への興味なのです。

当ブログでもこちらの記事て触れているとおりです。⇒他人に興味をもつ、これがコミュ障の一番の解決手段

でも難しいですよね、人に興味を持つって。 いや厳密には持ち続けるって。

●他人の家の門は、自分にとって、あの神曲の地獄の門以上に薄気味わるく、その門の奥には、おそろしい竜みたいな生臭い奇獣がうごめいている気配を、

これはコミュ障あるあるでしょう。 人の家って怖いですよね。 厳密には玄関先でその先に起こりうる事態を、普通の人から見れば何を思案する必要があろうかという事態なのですがー、 「ピンポーン、 あ、あ、あの、○○ですが・・・」 ましてや本人ではなくその親族が出てくるかもしれないと思うと緊張して卒倒しそうになる例のアレです。

●あなたを見ると、たいていの女のひとは、何かしてあげたくて、たまらなくなる。・・・・・いつも、おどおどしていて、それでいて、滑稽家なんだもの。・・・・時たま、ひとりで、ひどく沈んでいるけれども、そのさまが、いっそう女のひとの心を、かゆがらせる。

これはちょっと趣向を変えて取り上げます。

ズバリ! コミュ障でもこういった視点でモテルこともあるかもしれません。 おどおどしているとモテないというのが定説ですが、これもまた見せ方次第。 ときおり面白いヤツを演じているとそのギャップに萌えてくれる異性はいるかもしれないという淡い期待の話でございます。

●恐怖すればするほど好かれ、そうして、こちらは好かれると好かれるほど恐怖し、皆から離れて行かねばならぬ、

その人を怖いと思うのに避けて通れない時、演じれるコミュ障はその人への対策として、緊張して変な汗をかきそうな状態なのに必死で頭をフル回転させ神経を使ってイイ人・面白い人を演じます。

そうやっていくうちに誰からも変に好かれる人物になっていくことも事実です。 器用だとさらに、その演じている自分を本物に見せることができてしまうため、 好かれれば好かれるほど周囲の期待が重くのしかかり、より本当の自分を見せることができずしんどい思いをすることになるという。

このレベルに行くとだいぶ就職においても「サラリーマン」とかにはまず憧れず、一人で黙々とできそうな工場での作業とか新聞配達とか清掃員とかに憧れるようになってくるんですよね。

●「シゲ子はね、シゲ子の本当のお父ちゃんがほしいの」

ぎょっとして、くらくら目まいがしました。敵。 (…中略…)他人、不可解な他人、秘密だらけの他人、シゲ子の顔が、にわかわにそのように見えて来ました。

シゲ子だけは、と思っていたのに、やはり、この者も、(以下略)

これがもう本当にコミュ障チックなのです。

このシーンは、主人公と交際している女性の連れ子である「シゲ子(←主人公のことをお父さんと呼ぶくらいなついていた)」という娘と主人公が会話している時にふとシゲ子が「本当のお父さんに会いたい」と本心をそのピュアな幼心から漏らした言葉を発するシーンなのですが、 これを聞いて、一気に怖気づいてしまうコミュ障さなのです。

普通なら「寂しいな」くらいで終わるのが、もう小娘にも愛されない、いやそんなことは決してないのがそれまでのやりとりからも分かるはずなのに、なんか嫌われてしまったかのような恐ろしさを覚え、気まずくなってその後もどう接していいか分からないという。

いや分かります。

ワタシもきっとそう感じます。 こども相手にもコミュ障ぶりを発揮してしまう自分って、本当に情けなくなりますよ。 ああ、自分はなぜこうもう勇気がないんだろう、バカなんだろうと。  20代後半くらいから周囲も家庭を持って子供ができてくるので、こういう子どもや相手の配偶者とかと接する場面なんかも増えてきますが、まぁ固まって何もしゃべれない自分がいます。 みなさんもきっとそういう経験があるでしょう。また、これから必ず経験することでしょう。

●ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気づかず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。

これ、傍からみていて本当にそう思います。 みんな仲良しごっこなんだろ? ホントはファッションの一部として友達付き合いしてんだろ?と。

リア充の気持ちが分からないからこういう気持ちになるのです。 主観でしか考えられないところもまたコミュ障の特徴なのかもしれません。

●「お父ちゃんはね、お酒を好きで飲んでいるのでは、ないんですよ。あんまりいいひとだから、だから・・・・・」

そう、そうなんです。 当ブログでも過去に紹介したことがあります。⇒記事:コミュ障はアルコール・ニコチン中毒(酒やタバコを飲みすぎる)などの依存症にならないよう注意する!

そう、コミュ障というのはストレスがハンパないのでこういう酒のような快楽ツールに溺れやすいのです。 飲みたくて飲んでるのではないのです。 もっというと酒自体ももともとはそんなに好きじゃなかったけど、飲み会とか出席していると喋ることがないので、ただひたすら飲むしかない、食べるしかなく、それも食べるのは腹が張っても、飲むのはチビチビでもいいから続けることができます。 そうしていくうちにいつの間にかアルコール耐性がついて酒に依存するようになっていくのです。

●いくぶん図々しく振る舞う事を覚えて来たのです。

作中、後半のほうで上記のように、コミュ障である葉蔵(主人公)がまるで脱コミュ障したかのようなシーンがあるのです。 当ブログでも過去記事で書きましたが、むしろウザいヤツを目指すことでコミュ障(人見知り)が解消される、そうつまり、図々しいことはむしろ対人関係において、相手にも遠慮させないことにもつながるので、むしろ人と仲良くなるという点ではいいことなのです。 心理学的にも人にお願いごとをすれば仲良くなれるというのがありますが、お願いごとっていうのはそもそも図々しいことですから、そういうことなのでしょう。

で!

ここでなぜ、コミュ障である主人公が図々しく振る舞えるようになったのかということですね。

いや、多分思うにこれは、一種の躁病です。 やはり普段のストレスからおかしくなってハイな方向へ行ってしまったパターンなのではないかと思うのです。

もちろん、演じながらも場数を踏んでいることには違いないので対人スキルが上がっていった結果図太くなれたという見方もありますが、ワタシはそうは思いません。

だって、さきほどあったように、「恐怖すればするほど好かれ、そうして、こちらは好かれると好かれるほど恐怖し、皆から離れて行かねばならぬ」という性質が根本にあるからです。

だから努力して「ずうずうしくなった振り」をしてそれに対して少し抵抗がなくなったというのは分からなくもないですが、 性格が変わってコミュ障が改善したとはいえないでしょう。

●自分は世の中に対して、次第に用心しなくなりました。世の中というところは、そんなに、おそろしいところでは無い、と思うようになりました。

たしかにある程度生きていくと、コミュ障でも気づくことがあるんです。

ああ、思ったほど悪いことって起きないな、困難もたくさんあったけど何とかなってきたよ

と。

でも、これは悟ってコミュ障を克服した、という境地ではないんですよね。

ああ、残りの人生も、結局は乗り越えられるであろう苦難かもしれないけど、それに陰鬱としながら生きていかねばならない鬱屈とした気分を背負っている状態なのです。

●そうは言っても、やはり人間というものが、まだまだ、自分にはおそろしく、店のお客と逢うのにも、お酒をコップで一杯ぐいと飲んでからでなければいけませんでした。

ほらね。

やっぱり、酒に頼らないと普通に人と喋る度胸すらない、こういう状態なのであります。 そしてまた、飲みすぎてアルコールにハマっていくという。

●心のどこかで、幽かな、けれども必死の抗議の声が起こっても、しかし、また、いや自分が悪いのだとすぐに思いかえしてしまうこの習癖。

そう、これが自分のほうが客の立場であって、お店で買い物をしたときに店員側に明らかな非があっても、言えない、言う度胸がないという気弱なコミュ障なのです。

これはワタシの過去記事「コンビニ店員のモノの言い方にムカついた話←「袋に入れていいですか?」「いいです。」と答えた結果」でも触れているとおりです。クレーム(といっても向こうが悪いのに)が言えない情けなさ。

でも必死で自分をさとすんですよね、「怒るのはカッコ悪い、人間性が未成熟だ」と。でもそれはクレームの一つも言えない自分への慰めなのです。

●自分の不幸は、拒否の能力の無い者の不幸でした。すすめられて拒否すると、相手の心にも自分の心にも、永遠に修繕し得ない白々しいひび割れができるような恐怖におびやかされているのでした。

断れないんですよね。

人から頼み事をされた時は当然のごとく「はい」しかいいませんし、もっというと、「なんか面白いことやって、退屈させないで」みたいなオーラを相手が放っているとそれを過剰に察知して無駄にテンションあげて喋って消耗したりとか。

こういうことを、自分の本心に従って辞めてしまったとき、

相手に恨まれそう、ひいては社会から非難されそうな気がして、胸をギュッと押しつぶされるような怖さと緊張感があるのです。

人間失格の感想まとめ

以上、長々と書きつられてきました。 実に一万字におよぶ文字数です。

しかし、それだけ共感できたという表れでもあるのです。 まる3日、この記事を書き終えるのに実に6時間かかりましたよ、と。。

ちなみにですが、著者の太宰治がこの人間失格を書き終えた一か月後に自ら命を絶ってこの世を去っています。だからこそ彼の遺書にあたる作品だとも言われているのですが、いやこれはもう本当、魂のこもった作品であると思います。

コミュ障ならではの、人と対峙したとき、また社会生活においての心の動きを緻密に捉えているところがすごいのです。人と喋った、緊張した、アタマが真っ白、じゃないんですよね。やっぱりいろんな思考が頭の中でうごめいていて、それを手中の粘土で造形していくかのごとくコントロールされた表現で描写しているのです。

何をエラそうに、、という感じでしょうけども。。

でもコミュ障なアナタなら分かるはずです。

ぜひ一度読んで見てください、人間失格。

読後感はどんよりしますが、それでも次第に「ああ、自分はひとりじゃない、こんな文学が著名作になるこの日本だからきっと仲間はたくさんいるはずだ」と勇気づけられてきます。

アマゾンでも買えますし(⇒人間失格)、100均のダイソーとかにもありますし、図書館ならタダです。



アナタは私と似てる?>>管理人はこんな人






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コメント

  1. 生物失格 より:

     俺も管理人様と同じ重度のコミュ障です。いえ、管理人様と同じなんて図々しい事を云える身分ではありませんね。すみません。
     俺は今中学二年生で、まあ思春期と云われてしまえば其処で終わりなのですが、俺の場合コミュ障だけではなく、鬱病、HSP、人間不信の四人と仲好く同居をしています。此れは昔からあったのですが、其れほど症状も重くなく、しかも俺は其れを無意識に表に出してはいませんでした。いえ、表に出していない、と云うより、此れらが何なのか、分かっていなかったり、感情の整理が今一きちんとできていなかった、若しくは__俺はどう仕様もない小心者でナルシシストですので__自分可愛さで知らない、感じていないフリでもしていたのかも知れません。昔の事ですのでよく思い出せませんが、少なからず今はそうです。

     教室では寡黙な男子、部活や家族には明るいお道化。最近では躁鬱病(そううつびょう)なのでは? なんて思ったりしています。記憶が受け継がれる二重人格? 

     そういえば、自分で云った事を殆んど覚えてなかったりします。瞬発的に出た言葉なのかもしれません。

     俺は人間失格を中一の後期に読みました。勿論自発的に。(言葉合ってますかね?)管理人様と違い、最初で嫌気がさし読むのを放棄するどころか、どんどん夢中になってしまい、気付けば読み終わった時は一つの授業が終わっていた、なんて事が……。人間失格はとても面白く、また、作者である太宰治さんにも興味があります。どこか自分と似ているところがあり、もし自分が太宰治さんと同じ時代に生き、会って友人になったら、兎に角お互い道化を駆使してそうです。(笑)

     嘘を吐いた後は永遠と自分を責めたり、五年前ぐらいから嘘が巧くなり、どれが自分か分からなくなったり、相手が大体__と云っても自分の意見に対してだけですが__何を思うか分かったり、極度に`自分´を知られるのが恐かったり、だけど特定の、それこそ親でもなく身内でもなく先生でも先輩でも後輩でもなく、今付き合っているクラスメイトでもなく一般的に云われる友人やら親友なんて安っぽい者でもなく、誰でもない`信じれる人´に知ってもらいたい。最近は`大丈夫´が口癖になって、何でも我慢して、それこそ親にも我慢して、親の愚痴に同調して、労って、他人には平気な顔して毒を吐いて、自分から遠ざけようと態と? 自然に? 毒を吐いて、けれども独りはなんだか微妙な感じがして、他人が云ったからああなんだって思って、其れを云ってみると「自分の意思で」って云われて、弱いって云われて、頑張れって云われて、出来るよね? って云われて、俺が云った事に耳を傾けないで、だけれど俺の事で相手を煩わせたくなくて……。

    って矛盾したさも中二病らしい事で悩んでます。俺は何時でもマイノリティなので、中々皆さんと意見が合わないんですよね。こんな事を苦笑いして自分で嘲笑してるって事は、全然大丈夫なんでしょうけど。

     兎に角、俺は管理人様に共感します。とても其の気持ちが分かります。生憎フォロー等は出来ず、何か管理人様の書いているのを見ているよ、と意思表示の手段がコメントしかないのですが、此れからも、俺は管理人様の書いたものを読みます。出来れば名前を教えて戴きたいなと……いえ、矢張りいいです。

     顔が見えないからと調子に乗りました。すみませんでした。

     因に俺の道化スイッチオンの合図は、人の顔を見た瞬間です。たとえ体調が悪かろうと、完璧な笑顔とコロコロ変わる表情が出来ます。

    • コミュ障管理人 より:

      生物失格さん
      中学生にして人間失格を読み解けるとは、人生苦労していますね。さぞ多感なんでしょう。と同時にそれを表現できる才覚もあるようですから、ぜひ人生色々と模索してチャレンジしていかれるといいと思います。
      中学生の頃は、、そうですね、後から振り帰ってみるとまるで別人だったような(本質は変わらず内気でしたが)、そんな心地です。つまり、まだまだ変容していく過渡期ですので、安心してください。明るく生きようと志せばそれが手にはいると思いますよ。自分にあった環境をひたすら探すとよいでしょう。いずれにしてもまだまだ若い、未来はそんなに暗くありません。

  2. ああああ より:

    こんにちは。
    私は現在精神科に通っており、自分はこの先やっていけるだろうかという不安があります。
    人間失格を読めば読むほど共感しました。
    他者の思考が理解できないことが多々あります。
    満員電車で人の本性が見えるような気がしてぞっとしたり、仲の良い友人にさえ…いえ、頻繁に顔をつき合わせる間柄だからこそ内心汗水流してのサービスをしたり。
    挙げればきりがありません。
    人の輪の中にいながら永遠に孤独である感覚です。
    しかし、「人間失格」はささやかに孤独を癒してくれる作品でした。
    他にも、この作品に共感している方はいないだろうかと検索したところ、管理人様のこのページを見つけました。
    拝見した瞬間、握手したいぐらいに救われる気持ちでした。
    時間をかけて書いてくださったんですね。
    ありがとうございます。
    ちなみに、私もINFP型でした。

  3. ナマエハマダナイ より:

     此処にはINFPの方がおおいのですね。俺はINTPだったのですが、少々見なさんの感情的な部分についていけなくなってしまいます。
     そんな俺としては、人間失格を読んで、『この人は、とても感情的な人なんだな。この人はきっと優しくて、自分では分かっていないが、とても自我の強い、我が儘な人だ』と思いました。

     管理人さんも、ああああさんも、生物失格さんも、とても感情的な優しい我が儘な人です。

     俺から言わせると、『何故彼らが嘘を吐いているのに罪悪感を感じていない、と其処まで言って、尚も多少の批判をするのだろう』と不思議でなりません。

     俺は感情が欠落しているので、あまり共感出来ないンです。

     ああああさんは、何故そう思ったのですか?

    • コミュ障管理人 より:

      ナマエハマダナイさん
      コメントありがとうございます。
      このinfpという性格は確かに感情的ですね。それゆえに自分の気持ちにも鋭敏になり我が強く感じられるかもしれません。が、これが表に出ることはなくて内に閉じこめたままにされている点では、我が儘な振舞いがなされることはありません。

      いずれにしても、性格の違いからくる受け止め方の差であり、こうしたすれ違いはやむを得ないことだと思っています。

      あと、、この小説はアクが強いので共感されない方のほうが多いと思います。。いや、暗くなってしまうという点ではむしろ共感されない方がいいような気がします。。

      • ナマエハマダナイ より:

        あ、いえ、分かるんですけど、共感が出来ないンです。

        「うんうん、俺もそういうのあったよ」とか「あー……ここは俺も思うとこあったなぁ」とか。そういう共感が出来ないンです。

        分かるんですけどね。
        頭の理論では、確かに太宰治と同じ考えを持ってるンですけど、持ってるだけで心から「そうだよね、あるよね」とは思えないンです。

        我が儘って云うのは、なにも表だけに出るものでは無いンじゃないかなーと、俺は思ってるンですよ。

        一寸表現がややこしかったかもしれません。

        • 管理人 より:

          ナマエハマダナイさん
          なるほどおっしゃる意味が分かりました。人間失格の表現はエッジが利きすぎて大げさに思える所がありますね。ただ、infp的?にいうとそれがまさに的を射ている上に、痒いところに手が届いた表現で、そこに惹かれます。
          ですから、同じリアクションでも奥行きが違うのかもしれません(ナマエハマダナイさんを浅いと言ってる表現ではなく、この本との相性のことです)。
          いずれにせよ、こうやって何十年たっても議論を呼ぶのは、さすが名作だなあと感ぜずにはいられません。

  4. 匿名 より:

    太宰治の人間失格は、最初の枕のくだりですごく共感できました。
    よくよく読むとよく共感できないとこもあるんですけどね。